今を生き抜く英単語 #8 小澤英実 Singular They
ほんの数年前には想像もしていなかった世界が私たちの目の前に広がっています。
この「今を生き抜く英単語」シリーズは、私たちの考え方や生き方の転換が起こっている今、それでもこの世界を生き抜いていけるようなメッセージを、英単語を切り口に、さまざまな分野で活躍する著者から発信していただきます。
単数形のTheyとは?
2020東京オリンピックは、その準備から開催までに日本の問題点をこれでもかと露呈させたが、少なくともひとつ大きな意義があったと思えるのは、トランスジェンダーのアスリートが出場を果たした初のオリンピック大会になったことだ。今大会には、LGBTQのアスリートが少なくとも186人、そのうちトランスジェンダーであることを公表しているアスリートが少なくとも3カ国から4人出場していたという*1。だが、性自認(自分の性別についての自己認識)が男性/女性の二分法に当てはまらないノンバイナリー(non-binary)の選手の場合は、どう呼び表すかがきわめて重要な意味を帯びる。その存在が、オリンピックの制度そのものの自明性を揺るがすからだ。
ノンバイナリーの人々を表す人称代名詞としては、単数形の They が徐々に浸透しつつある。OED(オックスフォード英語辞典)によれば1375年にすでにみられるとのことだけれど*2、メリアム・ウェブスター英英辞典が2019年の「今年の言葉」に選出するなど、賛否両論ありながらも急速に認知されてきた。今大会にスケートボードのアメリカ代表として出場したアラナ・スミス選手は、They / Them と直筆でボードに、また胸にピンをつけて出場したにもかかわらず、英米のテレビ番組解説者たちが she / her / hers で呼んだこと(misgendering という)で視聴者から非難を浴びた。制作者たちは謝罪したが、この問題の一因には、解説者らに提供されるオリンピックの公式資料に、スミス選手のジェンダーが female と表記されていたこともある*3。「女子ストリート」(Women’s Street)の競技なのだから、選手は全員女に決まっているし、女でなければならないというわけだ。
こうしてノンバイナリーの選手の登場は、メディアのジェンダー・アイデンティティに対する報道のあり方に問いを投げかけ、矛盾を可視化し、「女子とはなにか」という定義をめぐって、わたしたちが闘いを繰り広げるもうひとつのアリーナを築いたのだ。そしてその闘いは、次のオリンピックにまで、それこそ聖火のように繋げていかなければいけない類のものだ。
“I chose my happiness over medaling.”「わたしはメダルよりも自分の幸せを取った。」とスミス選手は試合後のインスタグラムに投稿している*4。結果は最下位に終わったけれど、その満面の笑顔はどんな金メダリストの笑顔よりも輝いていた。最高の笑顔だった。ほんの2年前には自殺しかけていたことにも触れながら、スミス選手は言う。“My goal coming into this was to be happy and be a visual representation for humans like me. For the first time in my entire life, I’m proud of the person I’ve worked to become.” 「ここまでやってきたわたしの目標はハッピーでいること、それからわたしみたいな人間の目に見える代表になること。これまでの人生ではじめて、なろうと努力してきた人間になれた自分を誇らしく思う。」
と、ここまで文章を書いてきて、日本語で単数形の They を表すのは、当初想像していたよりも難しいことがわかった。日本語の得意技「人称ぼかし」や、名前に変えるという方法で乗り切れるかと思ったが、「スミス選手」と何度も書くのは、やはり不自然になってしまう。
三人称複数の They を訳すときにも、日本語の「彼ら」では男性としてひとまとめにしていることになるから、より正しくは「彼ら彼女ら」と訳すべきだといわれる。でも、わたしはそこにどうも乗れない。もともと日本語の「彼」は、「あれ」「あちら」「あの人」と同様に、発言者と聞き手から遠くのものに対して男女の区別なく用いる遠称だったのであり、むしろいまの単数形の they の意味に近い言葉だったと思う。それが幕末から明治にかけて英語の He と She の区別を表すために「彼女」という言葉が生まれ、そのとき「彼」が男性性を表すという意味の変容が起きたのだ*5。
もとは両性に使えていた「彼」という言葉が喪われてしまったことを、私はとても残念に思う。男性性が新たに付与され、He が訳せるようになったのと引き換えに、単数形の They という概念を訳せたはずの言葉がなくなってしまった。でも英語も日本語も、代名詞が指示するジェンダーは、これまで同様これからも、時代によって移り変わっていく。さらにはそれが翻訳されることで交雑が起き、リサイクルやアップサイクルされていくだろう。単数形の They を日本語に移し替えていくという翻訳の「さざ波」が、日本社会の性革命の大きなうねりをもたらす日も、いつか来ないとも限らない。
(出典)
*2:A brief history of singular ‘they’
*3:TOKYO 2020 アラナ・スミス選手公式プロフィール
*4:アラナ・スミス選手インスタグラムアカウント @alanasmithskate
*5:柳父章『翻訳語成立事情』(岩波新書、1982年)
東京学芸大学准教授・翻訳家
東京大学大学院総合文化研究科地域文化研究専攻修士課程単位取得退学。アメリカ文学、アメリカ文化、日米演劇、批評理論、身体論などが専門。訳書にエドワード・P・ジョーンズ『地図になかった世界』(白水社)、ロクサーヌ・ゲイ『むずかしい女たち』(河出書房新社)、カルメン・マリア・マチャド『彼女の体とその他の断片』(エトセトラ・ブックス)、共著に『幽霊学入門』(新書館)など。