生まれたばかりの英語たち #4 gaslighting

時代とともに新しく生まれ、変化していく「言葉」。グローバル言語として使われる英語には、日本ではまだまだ認識されていない言葉があります。その誕生には、どんな社会的・文化的背景があるのでしょうか。キニマンス塚本ニキさんに「生まれたばかりの英語」について解説いただき、一緒に「新しい概念」について考えてみましょう!
gaslighting(心理的に相手を操る行為)
●身近にひそむ「洗脳」に気づけるか
昨年の7月、英国議会はイギリスを拠点とする親パレスチナ団体「パレスチナ・アクション」に活動禁止令を出しました。政府は反テロリズム法に基づいてこの団体をテロ組織に指定し、さらにこの団体への支持を表明する行為も刑罰の対象となりました。
そしてこの法案が可決してからたった数カ月で、国内のテロ関連容疑の逮捕者数は前年と比べてなんと660%も跳ね上がったのです。そのうちの大多数は「I oppose genocide, I support Palestine Action(虐殺に反対します。パレスチナ・アクションを支持します)」と書かれたプラカードを掲げて抗議するなどして逮捕された、10代から80代までの一般市民だったと報道されています。
先日、この一件についてある記事を読んでいたところ、政府にこう主張する男性の言葉に目が止まりました。“Stop gaslighting the British public!”(イギリス市民をガスライティングするのはやめろ!)
この単語がこんなところで出現するようになったとは! と私は驚いたのですが、みなさんはこの意味がお分かりでしょうか?
ガスライティングについて理解するためには、1944年にイングリッド・バーグマンがアカデミー主演女優賞を受賞した映画『Gaslight(邦題・ガス燈)』のあらすじを語らなければなりません。旅先で出会ってすぐに結婚したポーラとグレゴリー。幸せな新婚生活のはずが、ポーラは日常的に物忘れや記憶違いを夫から指摘されるようになり、次第に深刻な自信喪失状態に追いやられていきます。誰もいないはずの天井からの足音や、灯りが弱くなるガス燈など、度重なる不可解な現象に怯える彼女に夫は「君はおかしい、正気じゃない」と諭し、家に軟禁します。現実と想像の区別がつかなくなってしまったことに絶望するポーラですが、実はすべて夫による巧みな洗脳だった…というサスペンス物語です。今でも全く色褪せていないスリルと魅力があり、1940年のオリジナル版と見比べるのもオススメです!
作中の心理操作がよほど多くの人の脳裏に残ったのか、心理的に相手を操る行為を表現するために『ガス燈』が引用されるようになり、1960年代には “to gaslight” という動詞が誕生しています。「相手が自身の精神状態を疑うよう心理的にコントロールする行為」を意味する心理学用語として英語圏で広まり、2016年にはアメリカ方言学会が gaslight を「最も便利な言葉」として選出しました。虐殺に反対する市民の主張を「テロ行為」だとする国の政府に、前述の男性は「我々の正当な主張を政府が異常だと洗脳しようとしている」と主張したかったのかもしれません。
DV加害をくり返しながら「私は被害者だ」と主張するパートナー、「ママがいないとあなたは何もできないでしょ」と子どもを抑圧する親、自分の指示のミスから「そんなこと言った覚えはない」と責任逃れしようとする上司など、これらすべて「ガスライティング」という言葉が当てはまります。(もしかしたら身に覚えがある人も少なくないかも…?)
さらにガスライティングは心理的虐待やDVなど対人関係の枠に留まらず、医療現場でも多数報告されているのです。医師が患者の訴えに真剣に取り合わず、十分に検査が行われないまま深刻な症状が見過ごされる medical gaslighting という問題が近年、浮上してきました。欧米では女性や有色人種の患者が特にこのメディカル・ガスライティングに遭う傾向が高いという報告書も複数あります。
ほかにも、耐え難い妊娠悪阻(おそ)に苦しんだにも関わらず、一般的なつわりと同じように扱われたケース、酷い生理痛を「みんなそんなもの」と言われ、何年も我慢していたら実は子宮筋腫だった、というケースなど、月経や妊娠、出産など女性の生理現象に関するメディカル・ガスライティングの事例も多く報告されています。もちろん、医師のほとんどは患者を洗脳しようとか、意図的に治療を怠るようなことはしないでしょう。それでも多くの患者たちが医療従事者の偏見や知識不足、あるいはパターナリズム(強い立場の人間が弱い立場の人間のためにと、本人の意思を問わずに介入・干渉する行為、父権主義)によって適切な治療を受けられない医学の現状を変えようと、医療業界の内外から見直しを呼びかけています。
周りの意見に威圧され、自身の主張や不調に蓋をしてしまった人たちが gaslighting という言葉を知れば、物事を変えるきっかけになるかもしれません。虐殺に反対するだけでテロ容疑をかけられかねないイギリス市民のように、あるいは映画『ガス燈』のラストで真実を知ったポーラがグレゴリーを激しく罵倒するように、不当な扱いに怒り、尊厳を取り戻そうと闘う人たちにとって gaslighting は大きな引き金となる言葉だと思います。

通訳・翻訳家・ラジオパーソナリティ
1985年東京都生まれ。9歳から23歳までニュージーランドで暮らし、オークランド大学で社会学・ジェンダー学・映像学などを学ぶ。日本に帰国後、フリーの通訳・翻訳者として国内外の社会課題の啓発や対話の現場に携わる。TBSラジオ「アシタノカレッジ」、「荻上チキ・Session」、YouTubeチャンネル「ポリタスTV」などにレギュラー出演。著書に『世界をちょっとよくするために知っておきたい英語100』(Gakken)がある。


