2020年の初頭には想像もしていなかった世界が私たちの目の前に広がっています。

この「今を生き抜く英単語」シリーズは、私たちの考え方や生き方の転換が起こっている今、それでもこの世界を生き抜いていけるようなメッセージを、英単語を切り口に、さまざまな分野で活躍する著者から発信していただきます。

Matter

近ごろ毎日のように聞くBlack Lives Matter をどう訳すかについては、もちろん決定的な正解はない。特に、「黒人の命は~」なのか、「…が~」なのか、「…も~」なのか、「…こそ~」なのかに関しては、英語と日本語の構造上の違いが根底にあるので、問題はややこしくなる。どれも正しいし、どれも完璧ではない。偏見を排除しようという真摯な思いから訳語を選んでも、揚げ足をとられて、へたをすれば逆に差別主義者のレッテルを貼られかねない。それだけ根深い人種問題が背景にあるからだが、翻訳という営みの難しさをこれほどまで生々しく突きつけられたことも珍しい。

英語表現としてのニュアンスを考えるとき、忘れてはいけないのは、動詞の matter は通常肯定文では使われない単語だということだ。Oxford English Dictionary に “To be of importance; to signify. Usually in interrogative and negative contexts.” (重要である、意味がある。たいてい、疑問や否定の文脈で使われる)とあるように、これは “Does it matter?” や “It doesn’t matter.” など、疑問文や否定文で用いられるのがふつうだ。つまり、Black Lives Matter というとき、matter には単に「重要だ」ではなく、「重要じゃないなんて、とんでもない!」という反発・抵抗の響きが確実にある。それを考えると、「黒人の命をないがしろにするな」や「黒人の命を無視するな」ぐらいが適訳なのかもしれない。

ところで、Black Lives Matter という表現が日本でもよく知られはじめたころ、これを「黒人の生命(or 生活)の問題」という意味に誤解している人が少なからずいた。文末にピリオドがないことも原因のひとつだろうが、matter を名詞と勘違いしたわけだ。この誤読例を見たとき、これは garden path sentence の小型版と見なしてもいいのではないかと思った。

garden path sentence は、日本語では「袋小路文」と訳されるもので、文の切れ目がわかりにくかったり、一部の単語の品詞を判定しづらかったりで、意味や構文を取りちがえやすい英文を指す。たとえば “Fat people eat accumulates.” という文は、一見「太った人々は蓄積物を食べる」という意味に感じられるかもしれないが、そもそも accumulate という名詞は存在しないし(accumulation ならある)、よく考えると意味不明の訳文だ。正しいのは、 “Fat / people eat / accumulates.” のように、Fat を主語(名詞)、accumulates を述語動詞ととらえる読み方で、people eat は後ろから Fat にかかっている。つまり、訳文は「人々が食べる(=摂取する)脂肪は蓄積する」だ。意地悪な英文だが、構文把握のトレーニングをするとき、この garden path sentence を読み解くのはなかなか効果的だ。有名なものが多くあるので、興味のある人は garden path sentence を検索してもらいたい。

話を matter にもどすと、これまで翻訳の仕事で扱ってきた matter のなかで特に印象に残っているのは、ダン・ブラウン Angels & Demons (『天使と悪魔』)に出てきた以下の例だ。

“Papa!” she giggled, nuzzling close to him. “Ask me what’s the matter!”

“But you look happy, sweetie. Why would I ask you what’s the matter?”

“Just ask me.”

He shurugged. “What’s the matter?”

She immediately started laughing. “What’s the matter? Everything is the matter! Rocks! Trees! Atoms! Even anteaters! Everything is the matter!”

「パパ!」ヴィットリアはくすくす笑い、父に顔を寄せた。「〝どうかしたのか(ファッツ・ザ・マター)〟って、あたしに訊いてみて!」

「でもおまえは楽しそうだ。なのに、どうしてそんなことを訊かなきゃならないんだね」

「いいから訊いて」

 父は肩をすくめた。「ファッツ・ザ・マター?」

 ヴィットリアはすぐに笑いだした。「〝物質とは何か(ファッツ・ザ・マター)〟ですって? 物質とは、すべてよ! 岩も、木も、星も。アリクイだってそう。何もかもが物質なの!」

Angels & Demons のヒロインであるヴィットリア(she)は、このとき9歳。理屈っぽくて周囲に持て余される孤児だったが、たまたま施設を訪れた科学好きの司祭レオナルド(Papa)と意気投合し、やがてレオナルドの養女となる。レオナルドはヴィットリアに科学の手ほどきをし、gravity(重力)とは何かを教える。それから少しあとに、上記の一節がある。

ヴィットリアはここで、”What’s the matter?” のダブルミーニング(「いったいどうしたのか」「物質とは何か」)をうまく生かして、養父レオナルドをからかっている。科学への強い興味によって結びついたこの父娘は、やがてふたりとも科学者としてCERN(欧州原子核研究機構)に勤務することになり、そこで antimatter(反物質)の大量生成に成功する。ここはその原点とも言うべき、微笑ましくも重要な場面だ。

最初の話からはずいぶんそれてしまったが、ある単語のいろいろな意味や用法を考えて想像の翼をひろげることで、その言語をより深く理解して、多くの場面で活用できるはずだ。